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2014年8月19日火曜日

『どプロお盆おちゃらかし対談(少年誌用)』その⑬

※以下 コ→小池たかし
     ど→どおくまん
     み→みわみわ
     です


み『そうそう花田秀治郎シリーズに関係ある❑△さんがな、

  一緒に働いてた記憶があんねんけど』

ど『❑△?うん、1ヶ月くらいおった…。

  オレ、プロダクション作ると宣言して実家に机や並べてたやん。

  あの時に入ってきたんや。原作者やりたいゆう事で』

み『あっそー』

ど『ほんで原作みたいなもの何本か書いたかもしれん。

  まったく使わんかったけど…、

  それでもオレの実家の工場でアルバイトしてな、

  プロダクション、一緒にやろーゆうてたわ。

  けど1ヶ月ぐらいした時にな、急にやめたわ。

  たぶん1ヶ月やって自分に向いてないと

  悟ったんやと思う。

み『そーいう事か。何でやめたんかと思てたんや』

ど『とにかくマンガなんて初めから仕事としてとらえたら

  まともな人間がやれるわけない。

  損得抜きで喰えないのを覚悟して

  バカになってやらんと絶対やれんもんや。

  それだけのこっちゃ』

み『…あの時はプロダクションの基礎の、

  人集めみたいな時期やったね』


おわり





2013年8月17日土曜日

どおくまん お盆特別エッセー

SA氏の思い出

■なにわ遊侠伝-2

大阪へ打ち合わせに来た、SA氏と初めて会った。
太地やみわみわよりも、5.6才年下のなかなかオシャレでハンサムな男であった。

わたしは、アサ芸の連載はこの2人(みわみわと太地大介)にまかすが、私もはじめだけ(連載が落ち着くまで)お付き合い(協力する)と申し上げた。
SAさんは『私は極道の取材は命がけでしてきました。(何度ももうダメかというのを乗り越えて、ここまで来ました)そのノウハウをこの漫画にぜひ生かして、一緒にやりたいと思ってます』と熱く語った。

太地大介が連載の始まる前に、何回か相談に来たので、私はどプロで極道漫画を描くのであれば、もちろんギャグでなければならないと伝えた。

そして、ある小じんまりとしたヤクザの一家を中心に、話を進めたらどうかと提案した。
そしてヤクザの親分とか兄貴分、子分達の配置を嗚呼!!花の応援団に習うようにも提案し、更に青田赤道の様な男が絶対いると伝えた。

一家の名前は、釣り好きの私が当時の大物釣りのメッカ、太平洋の金州から金州組と命名、主役の開門の名は太地大介が決め、連載当初は太地大介が開門のキャラを担当した。

開門のカラオケ音痴の首振りギャグの発案は私がした。

一方SA氏は、最初の約束通り、取材でしか知り得ない本物のヤクザネタを次々と提供してくれ、連載開始1年後の太地大介の急死の後も、色々な面で更に強力にプッシュしてくれ、なにわ遊侠伝はアサヒ芸能の歴代連載漫画最大のヒット作となったのである。


...つづく

2013年8月16日金曜日

どおくまん お盆特別エッセー

SA氏の思い出

■なにわ遊侠伝-1

私は現役の忙しかった時、海釣りが大変好きな時期があった。
少しまとまった休みがあると、必ず遠征して、1泊か2泊の釣り旅行をしていた。

あれは、少チャンに怪人ヒイロを連載していた、30代のはじめ頃の事である。
たまの休みにまた釣りかよと、いつもの様に嫌がる?幹部連中(みわみわ・太地大介・小池たかし)を引き連れて和歌山県の串本へ、大物釣りに出掛けた帰りの特急列車の中でのことだ。

1m20cmの20㎏を超えるヒラマサを釣り上げて、上機嫌の私に後ろの席から、太地大介が声をかけてきた。
彼も70cm近い大真鯛を釣り上げていた。

『兄貴、週間アサヒ芸能のSAという編集がうちの大フアンで、ぜひ連載をと言ってきてるんやけど、俺とみわみわでやってええか?』

当時私や小池は手一杯で、みわみわと太地大介はポッカリと仕事が無く、2人を手伝うかたちになっていた。
当然若いから、やっぱり自分達も何か発表したいのだ。

私は常日頃、仕事に関して控え目な2人が、珍しく積極的なので嬉しくなった。

『うーん 週刊誌か…』と少し考えて『よし やってみい オレもサポートするで』と答えたのである。
『しかしや やってもええけど、必ず2人協力してやらんといかんで。太地大介は主に脚本、みわみわはプロットを担当しろ』と許可をだした。

2人は後ろの席でかなり喜んでいたのを記憶している。


...つづく