SA氏の思い出
■なにわ遊侠伝-2
大阪へ打ち合わせに来た、SA氏と初めて会った。
太地やみわみわよりも、5.6才年下のなかなかオシャレでハンサムな男であった。
わたしは、アサ芸の連載はこの2人(みわみわと太地大介)にまかすが、私もはじめだけ(連載が落ち着くまで)お付き合い(協力する)と申し上げた。
SAさんは『私は極道の取材は命がけでしてきました。(何度ももうダメかというのを乗り越えて、ここまで来ました)そのノウハウをこの漫画にぜひ生かして、一緒にやりたいと思ってます』と熱く語った。
太地大介が連載の始まる前に、何回か相談に来たので、私はどプロで極道漫画を描くのであれば、もちろんギャグでなければならないと伝えた。
そして、ある小じんまりとしたヤクザの一家を中心に、話を進めたらどうかと提案した。
そしてヤクザの親分とか兄貴分、子分達の配置を嗚呼!!花の応援団に習うようにも提案し、更に青田赤道の様な男が絶対いると伝えた。
一家の名前は、釣り好きの私が当時の大物釣りのメッカ、太平洋の金州から金州組と命名、主役の開門の名は太地大介が決め、連載当初は太地大介が開門のキャラを担当した。
開門のカラオケ音痴の首振りギャグの発案は私がした。
一方SA氏は、最初の約束通り、取材でしか知り得ない本物のヤクザネタを次々と提供してくれ、連載開始1年後の太地大介の急死の後も、色々な面で更に強力にプッシュしてくれ、なにわ遊侠伝はアサヒ芸能の歴代連載漫画最大のヒット作となったのである。
...つづく
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