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2013年8月25日日曜日

どおくまん 特別エッセー

太地大介の思い出 その8


何秒かにらみ合いが続く……。


すると相手は突然バイクを反転させ
『おぼえとれーっ』捨て台詞をして、走り去っていった。

フーと2人は大きく息を吸った。

『フン 何が覚えとれじゃドアホめ』と私は遠ざかる相手に吐き捨てる様に言った。

私 『あいつ明日、仲間連れて、待ち伏せしよるかもしれん。念の為、当分時間と道変えるで』


弟 『わかった』と短く答える。

帰り道、私達は並んでゆっくり自転車を走らせる。
月明かりが道路に2人の影をつくった。

私が先に笑い出した。

私は何だかおかしかったのだ。
あのヤンキーがチェーンを引きずりながら、あたふたと逃げて行く様を思い出したのだ。
横を見ると弟も笑っていた。

2人は自転車に乗って、実家に帰る踏切を、笑いながら渡った。

この時月刊少年チャンピオンで10年以上続く 暴力大将 の連載が始まったばかりであった。


...おわり

2013年8月24日土曜日

どおくまん 特別エッセー

太地大介の思い出 その7

自転車の話-3

『おっ やるんかコラー』

近づいて来た弟に、バイクにまたがった大男はチェーンを持ち替えた。

弟は更にゆっくり近づいてゆく。
(マズイ 弟の奴 ホンマにやる気や

向こう見ずで、相手に言い掛かりをつけられたら、必ずやる。

単純というか純粋というか、バカの一つ覚えの様に、こんな時決して逃げないのが弟(太地大介)の性格だ。

私は慌てて自転車を、2人の間に割り込ませた。

『こらー いてまうぞワレー!!』

と大声で怒鳴りつけ、相手をにらみつけた。

(マズイなぁ、ケンカになって、こんな奴ケガさせて警察の厄介になったら、オレの漫画家としての将来が…)内心ではかなり動揺していたが、しかたがない。


(コイツがクサリ振り回す前に、ひっ捕まえて袋叩きにしてやる)と覚悟を決めた。


...つづく

2013年8月18日日曜日

どおくまん 特別エッセー

太地大介の思い出 その6

自転車の話-2

キキーーガシャン 

『うっ 弟(太地大介)が交通事故か』 私は急いで自転車をこいだ。
路地の角を曲がると、街灯の薄明かりの下に、バイクと自転車が倒れているのが見えた。

バイクの方は、フルフェイスのヘルメットをかぶった、派手な皮のライダースタイルの大男の、ヤンキー風アンちゃん(若者)だった。倒れかけのバイクを持ち上げながら

『いてて コラー ぶっとばすぞ バカヤロー』と叫んでいた。

弟はというと、自転車が半倒しになっており、黙ってゆっくり自転車を持って、起き上がるところだった。

弟に『どうした』と聞くと、バイクと出会い頭に軽く接触したという。
両者共、どうやら大したケガはしていないようだ。

どこ見て走っとんのや!マヌケーとバイクの男が私らにひつこく言うので、『なに偉そうに言うとんじゃドアホ お前も悪いんやろが!』
私のとっさに、ガラの悪い大阪弁が飛び出してしまった。

『な、なんじゃあオンドラ やる気かァ!!』
一気にヒートアップした相手は、興奮気味に言い返すと、腰の辺りをまさぐって何かを取り出した。

よく見ると、銀色に光るクサリを持っていた。太いケンカ用のチェーンだ。

それを見た弟はゆっくり自転車を降りた。

相手に近づいてゆく。


...つづく

2013年8月11日日曜日

どおくまん 特別エッセー

太地大介の思い出 その5

■ 自転車の話-1

『おまえら薄情な奴やの』

元大学空手部主将の兄貴は、1年足らずで辞めてしまった私達を、見るたびにそう言ったが、アルバイトを増やしてなんとか仕事をやりくりし、実家の工場も順調そうだ。

一応兄貴だから、文句を言いながらでも、私達が忙しくなっていくのを、嬉しそうに見ている様にも見える。

さて、仕事場が吹田に移転した当初、私は実家から自転車で、弟(太地大介)と、吹田まで通っていた。阪急電車なら、ふた駅なのだが、自転車で普通に走れば約40分位かかる。

若かった私達は、途中相川の土手におり、競輪選手?並にぶっ飛ばした。もちろん毎日競争だ。
途中、路地裏や、河川敷の急坂を登り降りを繰り返し、ベストタイムをたたき出す。

毎日の長時間の座り仕事の中で、唯一の楽しい運動の時間でもあった。
片道のタイムは約20分前後で、たいがい私が勝ったが、弟もなかなかやる。

ある時私は、仕事場からの帰り、もう夜の11時をとっくに過ぎていた頃、下新庄の路地の手前で弟に抜かれた。
『くそったれーまてー』と必死で追う私。
弟は続いて2つ目の細い路地の角を曲がった、その時である。

キキキーーーガシャーーン

『うっ交通事故か?』

私は急いでその路地の角を曲がった。


...つづく

2013年8月10日土曜日

どおくまん特別エッセー

太地大介の思い出 その4

■ からの電話

工場に出る様になって1年ほどたったある日、実家兼工場の電話が鳴った。

『カズさん電話ですよ』 『オレに?』 ヘルメットをかぶって作業をしていた私は油だらけの手袋をとって受話器を取った。

『少年チャンピオンのです。うちで連載しませんか?』
 
『?』

それは唐突な誘いだった。

さんというのは後でわかったのだが、ドカベンやガキデカやブラック・ジャック等数々の大ヒットをチャンピオンに掲載した、当時ものすごい凄腕の名物編集長だった。

当時の私は月刊少年ジャンプに2ヶ月に1回、花田秀治郎シリーズという30頁だけのさびしい連載しか持っていなかったのでもちろん『ハイ やります!』と二つ返事したのは言うまでもない。
聞けば月刊少年チャンピオンで毎月50頁程度という。

一気に仕事が3倍以上になった。
原稿料も1頁あたり3倍以上だ!
月収も頁が増えたので何と6倍!(…といってもまだまだ4人が喰っていくには足りないが…)

私はその事を少年ジャンプに連絡した。

すると、喜んでくれると思ったら、反対に即刻クビになってしまった。
何でも専属契約制度とかいうモノに触れたらしい。
私はそんな契約書を交わした覚えなぞ1度もなかったのだが…。

ともあれ花田秀治郎シリーズは終了したが待ちに待った新しい連載がスタートした。

私は実家の工場を辞め、吹田の方へ事務所を借りることにした。
(実家にいてはいつまでも兄貴達にこき使われるからである)

この時私(どおくまん)は22才、弟(太地大介)は20才、みわみわ20才、

いよいよ独立の始まりだった。


...つづく

2013年8月9日金曜日

どおくまん特別エッセー

太地大介の思い出 その3

太地大介という男(その3)

 『大の男が、マンガみたいなもんチマチマ描いて、情けないとはおもわんのかァ!!ドアホ!!家業がメッチャ忙しいんや!!さっさと手伝え!!しばかれんぞーオドレラー!!

空手四段の暴力だけが自慢?の兄が血相を変えてわめき散らし枕を蹴りあげたのだった。

そして私達はその日から、兄達のやっている工場に、強制的に駆り出されることになった。
まるで、どこかの国の戦時中の強制労働のように、情け容赦なく夜遅くまで残業させられたのである。

しかし私達はもちろん、漫画を描く事は断固やめなかった。

早朝に全員集合し、午前中は何を言われようと、漫画の作業を死守して、母の作った美味しい昼飯をいただいてから、全員1時から工場に出たのである。
残業は、毎日10時頃まで、時には深夜に及ぶ時もあった。

全員と書いたが、工場に駆り出されたのは、私と太地大介とみわみわの3人であった。

工場で製造していたのはベルトワックスと工業用洗剤であった。
わたしは毎日、250㎏のドラム缶を転がし、弟と2人でワックスを作った。
みわみわなどは洗剤工場で働いていたので、洗剤の白い粉が当時まだフサフサとしていた彼のアフロヘアーが、真っ白になるほどいつもついていておかしかった。

花田秀治郎シリーズを描きながら、次の作品を毎日夢見ながら、そんな若い、油まみれ、洗剤まみれの日々が続いた。


...つづく

2013年4月25日木曜日

太地大介の想い出 その2

■太地大介という男 (その2)
…もちろん食える訳もなく、私と太地大介と、みわみわの3人は毎日ただ、だらだらと漫画を描いていた。(小池たかしは当時、自分の漫画を自宅で描いていて、時々週刊少年ジャンプ等に短期連載等をしていたので、私達の〆切が間に合いそうもない時などに時々手伝いに来る程度だった。)

私は大学をほぼ卒業(?)していたが(実はこの時はまだ四回生で全く大学に行っていなかった)、弟の太地大介は一応現役の大学二回生であったが…休みがちであった。みわみわも一応専門学校の学生であったが、学校には全然行っていなかった。

当時、私の父親が亡くなったばかりで、上の2人の兄達が親父の跡を継いで実家の横で工場をやっていた時はオイルショックの真っ只中で工場は超忙しいが、超人手不足でもあった。

ある朝、徹夜で花田秀次郎くんシリーズを仕上げて弟と二人部屋で寝ていたら、突然兄が部屋に入ってきて枕を蹴り上げてこう叫んだのである。

「このボンクラ! ええ大人のくせにくだらんマンガなんか描かんでええから、はよ手伝えーっ!!」


…つづく

2013年4月24日水曜日

太地大介の想い出 その1

合掌!

私たち3人は事務所で昼食を食べる前に1分間の黙祷を捧げた。
今日4月24日は「嗚呼!! 花の応援団」の原作者で、
私の弟でもある太地大介の命日である。

もう、はや25年も経ってしまった。

今日から何日かにわたって、彼の事を書いてみたいと思う。


■太地大介という男(その1)
私が22歳の時、どおくまんプロを立ち上げたのであるが、その当時のメンバーは弟の太地大介と、その高校の友人のみわみわと、たまに参加する私の大学の友人の小池たかしであった。

当初は私の実家の6畳の和室に机を並べ、当時2ヶ月に1度連載していた
月刊少年ジャンプの「花田秀次郎くんシリーズ」を制作していた。

制作していたというと聞こえはいいが、要するに2ヶ月にたった32枚の仕事しかなく、しかもスズメの泪ほどのわずかな原稿料しか貰ってないくせにメンバーは私を含め4人もいたのである…


…つづく